1961(S36)
大和ハウスが宅地開発会社・大和団地を設立し、住宅金融公庫ではない銀行融資付き団地開発第一号として羽曳野ネオポリスを計画。近鉄及び埴生野、四天王寺農業協同組合より土地を譲り受け、宅地造成に着手。
(現在の羽曳が丘6、8丁目付近の徳楽山と呼ばれる丘の上に小さな円墳の徳楽山古墳があった。
住宅地の開発で破壊されるのを防ぐために、埋葬施設である横口式石槨を現在の四天王寺大学に移して保存し、現在は府の有形文化財として指定されている。)
1962(S37)
9月ネオポリスの分譲開始。<写真は今の羽曳が丘1丁目信号付近>
1964(S39)
3月ネオポリスヘの入居開始。1丁目牧浦氏、2丁目坂井田氏
8月羽曳が丘1丁目・2丁目・4T目町会で連合会が発足。
住環境の整備、特に大和団地との折衝が中心で、道路舗装・防犯灯の整備、塵埃処理、学校建設、近鉄バス路線延長(藤井寺前⇒羽曳が丘5丁目)等を要請、協議。
羽曳が丘集中浄化槽竣工。(処理費1戸100円/月)
10月ネオポリス入居世帯数が200余戸に達す。
1965(S40)
パス路線古市駅前⇒羽曳が丘5丁目が開通。道路舗装が完成。
私立白鳩幼稚園開園。羽曳野市人口50,331人となる。
1966(S41)
羽曳が丘西地区への入居始まる。美陵町が藤井寺市となる。
バス路線藤井寺駅前⇒羽曳が丘8丁目へ延長実現。
羽曳が丘神社建立。羽曳が丘郵便局開設。
1967(S42)
羽曳野市学園前3丁目に四天王寺女子短期大学が移転、同女子大学が開校。市立幼稚園設立運動起こる。小学校用地買収始まる。
1968(S43)
羽曳が丘プール完成(羽曳が丘西2丁目、現モモプラザ近辺にあったが現在は宅地化されている)
1969(S44)
羽曳が丘幼稚園が西浦幼稚園の分園として開園。
7年目にして1,693世帯、6,097人の町となる。
羽曳が丘小学校第1期竣工、1~3年生通学開始。
1970(S45)
羽曳が丘小学校第2期竣工、4~6年生通学開始。
羽曳が丘西2丁目公園内テニスコート完成。羽曳が丘中央公園に噴水完成。第1回盆踊り大会開催。
1971(S46)
市立羽曳が丘幼稚園開園。羽曳が丘プール閉鎖。プールは小学校へ寄贈されることとなった。
1972(S47)
10年目にして2,134世帯、7,836人の町となる。
第1回文化祭開催。小学校体育館完成。 柏羽藤消防組合羽曳が丘出張所を建設。
1973(S48)
これまで自治会連合会と称していた会名を「羽曳が丘町会連合会」と改称。
屎尿処理管理組合を設立(処理費1世帯260円
/月、市補助20円/月)。
大和団地より寄贈のプールが羽曳が
丘小学校に完成。峰塚中学校未竣工のまま、誉田中学校にて仮
校舎で開校。 中央公園に地蔵尊建立。近畿大阪銀行羽曳野支店を羽曳が丘5丁目に開業。
1974(S49)
第1集会所「老人憩いの家」竣工。峰塚中学校校歌制定。
日赤募金始まる。
羽曳が丘小学校校歌公募始まる。
羽曳野市役所新庁舎落成。
市の木・橘、市の花・桃が制定。
1975(S50)
蔵之内の一部を羽曳が丘7丁目に編入。 2,365世帯、8,6
08人。
羽曳が丘納税貯蓄組合設立。日赤募金1世帯50円。
羽曳が丘小学校校歌決定。
峰塚中学校体育館完成。
1976(S51)
羽曳が丘国民健康保険料納付組合設立。日赤社員制度発足(
1世帯1口300円)。
公園清掃費、市より支出。防犯灯助成金
は1灯5千円。
1977(S52)
屎尿処理場改善(処理費1世帯290円、市の補助40円)
中央公園の噴水を取り壊し、花壇に改造。
小学校にプール完成。
1978(S53)
近鉄バス羽曳が丘循環線運行開始、西5丁目へ延伸。
15年
目で2,488世帯、9,205人の町となる。
1979(S54)
河原城地区の羽曳が丘地区編入に反対。羽曳が丘音頭発表。
近鉄バス代金100円となる。羽曳が丘西2丁目東バス停開設。
1980(S55)
羽曳が丘第2集会所竣工。羽曳が丘4丁目北バス停開設。
峰塚中学校第2期工事完成。 阪神高速道路松原線開通。大阪
環状道路(寝屋川・河内長野間)開通。
1981(S56)
埴生野102戸、河原城5戸が羽曳が丘4丁目に編入。 四天王寺女子大学が四天王寺国際仏教大学(共学)と改称。
1982(S57)
21年目で2,554世帯、9,212人の町となった。
1983(S58)
陵南の森総合センター完成。
1984(S59)
四天王寺国際仏教大学敷地内に四天王寺羽曳が丘高等学校・中学校設置。
羽曳が丘5丁目、砂場公園の宅地造成計画が発表される。
1985(S60)
羽曳が丘東下水処理場の修理(総工費8千万円)により、 処理費1戸450円、市より補助金150円。
1986(S61)
羽曳が丘5丁目の砂場公園跡地に太陽住宅が85戸建設、5丁目町会に編入。
2,573世帯、8,996人の町となった。
日赤社員500円以上となる。
羽曳が丘開設20周年記念事業
準備3部会が発足。
1987(S62)
羽曳が丘5丁目新住宅が太陽住宅と集会所建設の話し合い開始。
羽曳が丘開設20周年記念式典、記念講演会、ふれあい運動会が執り行われた。
<写真は羽小体育館における記念式典での梅原猛氏講演>
1988~1990(S63~H02)
この間の資料「連合会報告」が見当たらず、記述不能。
1991(HO3)
南河内青年の森をつくる会発足。アンケート調査を実施。
大阪府立看護大学の建設工事開始。羽曳が丘戦友会が防犯パトロール開始。ミキゴルフ場跡地整備構想に対するアンケート調査1000人に実施して回答率90%。
1992(H04)
羽曳が丘女性の会(仮称)発足。後の婦人の会スタート。
羽曳が丘青少年健全育成連絡協議会が発足(町会連合会、青少年指導員、民生児童委員、小学校PTA、校区子供会、青少補導員等で構成)羽曳が丘校区福祉委員会設置。羽曳が丘東西にある汚水処理場の運営を市の公共下水処理へ移管。
1993(HO5)
羽曳が丘コミュニティーセンター(MOMOプラザ)オープン。 羽曳が丘神社氏子会発足。羽曳が丘町会連合会の特別調査部会「南河内健康ふれあいの郷を考える会」が31名のメンバーで発足。 2,754世帯、9,026人。
1994(HO6)
羽曳が丘第一集会所移設再建オープン(建設費7,117万円)MOMOプラザに飲料用自販機を羽曳が丘町会連合会が設置。 収益は連合会が福祉活動に使用。 大阪府立看護大学開学。 育協主催で第1回ふれあいフェスティバルを開催。
1995(HO7)
羽曳が丘コミュニティーセンター北東隅に災害情報伝達放送設備を設置。
1996(HO8)
羽曳が丘自警団発足。
1997(HO9)
羽曳が丘集会施設「円想」とMOMOプラザ調理室がオープン。
1998(H10)連合会報告が見当たらず、記述不能。
1999(H11)
南河内健康ふれあいの郷開発計画変更の住民説明会開催。
郡戸池埋め立て跡地を第一集会所使用の葬儀時に限り駐車場使用の許可を羽曳野市より得る。 羽曳が丘トンボ池、東下水処場跡にオープン。
2000(H12)
羽曳が丘違反広告物撤去指導委員会が発足、活動を開始。 京大大学院による「郊外住宅地に関するアンケート調査」実施。 町会連合会より南河内健康ふれあいの郷に対する要望書を市と大阪府住宅供給公社へ提出。羽曳が丘1丁目に北接する峰塚荘園(西浦5)の開発開始。
2001 (H13)
「ふれあいの郷要望書」の回答並びに説明会開催。バス道路羽曳が丘5丁目~8丁目に歩道を整備。引き続き8丁目~西1丁目~西3丁目も順次年度別に施工。
2002 (H14)
羽曳が丘第二集会所改修工事完了。郡戸池の整備工事延期。
町会連合会運営の諸問題解決の為のプロジェクトチーム編成。
(会則の改正、役員定年制の導入、羽曳が丘住民の葬儀に連合会からの会葬は取りやめ、アルミ缶回収の事業化等)ふれあいネット雅推進チームがスタート。羽曳が丘まちづくりの会(ふれあいの郷を考える会が改称)が住民のアンケート調査を行う。子供たちの「まちづくりコンテスト」も実施。またメダカの里親運動を展開。 峰塚中学で共育ネットがスタート。<写真はアルミ缶の回収作業、現在は業者に委託している>
2003 (H15)
アルミ缶回収事業を開始。アンケート調査の結果に基づき市へ要望書を提出。羽曳野市は「ふれあいの郷開発計画説明会」を3回に亙って開催。夏期巡回ラジオ体操が羽曳野市羽曳野中学校で開催、全国放映された。町会連合会で第二次プロジェクトチーム発足。更生保護女性会が「子育てサロン」開設。 町会連合会が広報(中古軽自動車)を購入し、自警団が防犯防災パトロール活動に使用開始。羽曳が丘第一集会所を使用した「標準葬儀」を目指し、デモンストレーションとアンケート調査を実施。
2004 (H16)
高年生きがいサロン6号館がオープン。羽曳が丘と西浦校区で共用。町会連合会傘下の各町会に自警団担当役員の設置を要請。NPO法人羽曳が丘E&Lが発足。羽曳が丘育成協が「スクールコンタクト」を実施、羽曳が丘小学生が国際宇宙ステーションと英語で交信。羽曳が丘各バス停にベンチ(寄贈)を設置。
2005(H17)
町会連合会がマジックステッカー(3枚1組)20組を羽曳が小学校へ寄贈。 「ふれあいの郷スポーツ公園」を羽曳野市が大阪府住宅供給公社より5年間無償貸与される。府立看護大学が大阪府立大学看護学部となる。羽曳が丘E&Lが独居老人へ総菜配食サービスと、高齢者交流サロン「みんなで歌おう会」を開始。羽曳が丘9丁目町会発足、町会連合会に加入。町会連合会が歳末チャリティーバザーを開催、収益金でマジックステッカー(自動車のボディー両側へ貼付2枚1組)不足分100組を羽曳が丘小学校へ贈呈。
2006(H18)
羽曳が丘第3集会所オープン。羽曳が丘西6丁目町会が町会連合会へ加入。 医療法人春秋会「城山病院」が「はびきの」へ移転、開院。羽曳が丘西5丁目のテニスクラブ跡地をファミティーホームが宅地開発を計画、住民説明会開催。
2007(H19)
羽曳が丘西7丁目の元「国立介護老人ホーム」予定地をフジ住宅が宅地開発開始。 道の駅「しらとりの郷羽曳野」6/27オープン。羽曳が丘地車会が結成され、初曳行を行う。 「南河内健康ふれあいの郷」スポーツソーン北地区の土地利用についての説明会開催。 3328世帯、10039人の町となる。羽曳が丘校区福祉委員会による歳末チャリティーバザーを開催。 収益金で羽曳が丘幼稚園へ楽器を贈呈。
2008(H20)
四天王寺国際仏教大学が四天王寺大学と改称。羽曳が丘10丁目にスーパー「サンプラザ・羽曳が丘店」が出店を計画、住民説明会を開催。町会連合会として要望書提出。
2009(H21)
羽曳が丘地区の連合会以外の4自治会長を連合会理事会ヘオブザーバーとして出席を要請、以降毎月4自治会長出席。藤井寺球場跡地に四天王寺学園小学校が開設。サンプラザの回答、連合会の再要望を経てサンプラザ、オープン。羽曳が丘地区区長会を羽曳が丘町会連合会総会時に同時開催。羽曳が丘小学校校庭に於いて初の地区防災訓練を行う。市と羽曳が丘地区区長会共催で「道の駅・しらとりの郷羽曳野にて第1回グリーンフェスタ」を開催。 羽曳が丘町会連合会が羽曳が丘に公立保育所設置の請願書(4千人を超える署名簿添付)を市議会へ提出するも不採択に終わる。羽曳が丘校区福祉委員会による歳末チャリティーバザーを開催。収益金で羽曳が丘小学校へ楽器を贈呈。ふれあいの郷スポーツゾーンに市営の「新グランドゴルフ場16ホール」がオープン。
2010(H22)
大阪府の施策により、地区の各種団体が協力して羽曳が丘小校庭の一部に芝生を植栽。市道羽曳が丘西34号線が開通しバスルートが一部変更された。「南河内健康ふれあいの郷・スポーツソーン北地区」の開発コンペで「ダイワハウス・住友林業・ミサワホーム共同事業体」が選定され、市及び羽曳が丘プロジェクトチームと地区公園内のビオトープ池等、具体的な施設設置計画の協議が始まる。11月「羽曳が丘9丁目開発事業の概要」が発表された。
2011(H23)
市道128号線と西34号線との交差点(羽曳が丘9、10丁目)に念願の信号機が設置された。 テレビ電波がこれ迄のアナログから、7月25日以降デジタルに切り替わった。 7月1日より羽曳が丘西7丁目町会(154戸)が羽曳が丘町会連合会に加盟、18町会・自治会で総戸数3650戸の団体となった。
9月1日より羽曳が丘9丁目の新住宅地にバス停が開設された。
2012(H24)
1月21日新住宅地(羽曳が丘9丁目)の街びらきが開催され北川市長、宮原連合会会長がテープカットを行った。9丁目町会は現在の211戸に新しく180戸が加わり、391戸の最大町会となった。今年度より羽曳が丘地区投票所に羽曳が丘第三集会所(第37投票区)が新設され、羽曳が丘7~10丁目羽曳が丘西1丁目が移管された。
2013(H25)
4月10日、羽曳が丘小学校敷地内に移転・新設の羽曳が丘幼稚園で入園式が行われた。6月14日羽曳が丘1丁目東北部にある「にごり池」の埋め立て開発について業者より1丁目町会住民への説明会が開催され、その後町会と業者間で協定書が交わされた。9月中句より工事開始。 11月17日、食とみどりの技術センター内に「動物愛護管理センター」の開設と共に老朽化した本館の立て替え計画の説明会が羽曳が丘第三集会所で開催、住民の質問に対し説明不十分で再度開催となる。
2014(H26)
1月19日、四天王寺大学体育館工事の関係住民説明会が開催工事車両の羽曳が丘通行が示されたが、現在学生数の増加で通学バスが2分おきに通り、学生のマイカーも併せると野中寺からの南行き道路は大渋滞で、騒音・振動も尋常ではない。その為工事車両の通行は断った。その結果八尾富田林線からのルートに変更されることとなった。3月31日を以て、MOMOプラザに設置されている証明書自動交付機は老朽化などにより廃止それに替わるものとして、コンビニでの発行サービスを行う事となった。長年連合会の広報紙として発行して来た「連合会報告」を4月号よりA4サイズの「広報はぴきがおか」と改題、リニューアルし、広告(有料)も掲載する。5月より町会連合会の提唱で、大人から子供まで皆が気軽に楽しめることを目標にフロア競技「カローリング」のニュースポーツクラブが発足した。
8月、「羽曳が丘町会連合会」が発足して50周年を迎えた。
それを機に「広報はびきがおか」電子版(ホームページ)を開設することになった。
(注)昭和36年~昭和62年のデータは昭和63年8月発行の「羽曳が丘のあゆみ20周年記念誌」に、以降のデータは「連合会報告」による。